海からいただいた
味と出汁で
今日も、いただきます
江戸初期から続く老舗生鮮問屋の西濱屋
初代 西頭徳蔵博(にしとうとくぞう)物語
江戸時代後期、博多の古渓町の魚問屋の筆頭である
「西濱屋」の主人で、屋敷塀が八丁あるというので
自らを「八丁兵衛」と名乗っていたようで、博多の
春のお祭りである「博多どんたく」の源流となる、
「博多松囃子(はかたまつばやし)」の「通りもん」
の創始者とも言われています。
江戸の文化の爛熟が頂点を極めていた時期、
「ひょうきん」な名物男で、生厓親しまれる事と
成った「八丁兵衛」と言う名前を自ら名乗ってい
たが、当時ユニークで毒舌も鮮やかな聖福寺の名
物和尚の仙厓和尚と初めて出会った際に、「八丁兵衛はお前には勿体なか、八丁へ(屁)で丁度よか」と言われたそうです。しかし、その名前がすっかり気に入ってしまい、自らの墓石に仙厓和尚から「八丁へ」と書いてもらい、それを彫り込んで、さらに茶目っ気たっぷりに赤い字に塗り込んだそうです。
この墓石は、糸島郡西ノ浦の漁民達が運び込んで
寄贈したそうです。除幕の日には、お揃いの赤手
拭いをした数十人の加勢人が駆け付け、寺門の内
外に押し寄せた群衆に、鉢巻姿で紅白のお餅を撒
いたそうです。
そして、聖福寺(福岡市博多区御供所町6-1)か
ら正定寺(福岡市博多区中呉服町10-14)に博多
芸者を総揚げして、自らは赤頭巾に赤バッチの姿
で、三味線・太鼓のお囃を先導して、祝賀の様に
盛大で賑やかな、当時では大変珍しかった「生前
葬」を取り行ったと言う実にユニークなご先祖様
です。また、1834年10月(天保五年)には、初興行で博多を訪れていた、当時は飛ぶ鳥を落とす勢いであった千両役者の江戸歌舞伎役者市川海老蔵(七代目団十郎)を、八丁兵衛が伴って仙厓和尚を訪れた際にも、大きな目の海老蔵を見て、仙厓は、勢いよく跳ねた一尾の海老を大きく描いたお得意の絵に、「お江戸では 一かわ(市川)二かわ知らねども ピンと跳ねたる 海老の目ン玉」と言う歌を皮肉たっぷりに書き込んで海老蔵の宿まで届けさせたそうです。一方の博多八丁兵衛も、海老蔵好みの南蛮渡来の品々や桁外れの歓待で海老蔵の度肝を抜いてアッと言わせたそうです。